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文慈部:あなたをそこから自由にする名文たち

歴史

「逝きし世の面影」からの文を慈しむ。

要するにこの物語を貫いているのは、この世を真面目にとる奴は阿呆だという精神だろう。この世も人間もたかが知れている。だとすると万事こだわらずに、この世を茶にしながら短い一生を気楽に送った方が勝というものだ。こういう一種つき抜けた感覚が主人公たちを支配しているのだが、それはニヒリズムと背中合わせの感覚であるだろう。といってもこれは明るいニヒリズムである。人間という存在を吹けば飛ぶようなものと感じる感覚は、一転して人間性への寛容となる。

「逝きし世の面影」 p574

文と書籍の解説。

「この物語」 とは江戸時代後期に十返舎一九によって書かれた 「東海道中膝栗毛」 のこと。滑稽本、いわゆるコメディですね。ハチャメチャな人間模様が続き思わず笑ってしまいます。物語の中のこととは言え、実は密かに江戸時代を彩っていたこの妙な虚無主義というか、楽天主義というか、チャランポランさというか。

一方、本書を読んでいくと、この部分に限らず、面影と題して解説される江戸時代の町人の姿には、どこかそんなピュアで素っ頓狂で健気な一面が貫かれていることに気付かされます。憎めないし、何だか愛らしい人たち。時代劇に出て来る悪党なんかのニオイはしません。
その描写には、かつてのウィリアム・モリスの著書 「ユートピアだより」 を彷彿とさせる穏やかな空気感があふれ、感触はまるでフワフワと夢を見ているかのよう。
そうして断続的に不思議な想いが訪れますが、これらは決してフィクションではないのです。その証拠はこれらを書き記した人物たちにあります。

世界が見た日本人の真の姿。

多くの書籍を読んでいく中で、相当数の引用を目にする本書。知る人ぞ知る名著と思わされます。さすがに気になって読むことに。過ぎ去りし幕末日本の姿がテーマです。
その外観はかなり分厚い文庫本。読みやすさはあまり重視されていないのか、段落分けに乏しい構成。やや骨太の研究書のような趣きを感じさせます。
町人の描写は全て当時の外国人滞在者――開国以来、頻繁に出入りするようになった西洋人――の視点によるもの。その職業も多岐に渡り、外交官・軍関係者・旅行者等。彼らの遺した記録や日記を丹念に調べ上げ、解説を添えていくことで、脳裏のスクリーンに描き出される古き良き日本の情景を楽しみます。ここまで調べ上げた著者の渡辺京二氏に脱帽。本が分厚くもなるわけです。

ここで重要なポイントは、その描写は彼らが日記等に書き連ねた率直な想いや考察であること。その視点はフェアでリアルな江戸の姿であり、一切の忖度がありませんし、作為も演出もありません。最近のTV番組とは違います。
概ね好印象を持たれ、おとぎの国か妖精の国かと感嘆の声を上げますが、当然のことながら時には酷評や考え方の違い (たとえば銭湯や裸への無頓着さ等) もあり、現代の私たちにも学びを提供してくれるようです。

こんなユートピアは今も昔も。

私たちがおぼろげに思い描く江戸時代の姿は、教科書ないしは時代劇からのものが一般的でしょうか。さらには武士を頂点とした階級社会で、士農工商なんてあるものだから、暗く厳しいとの認識があるかもしれません。
しかし近年、徐々に当時の本当の世相が明らかとなり、意外にも江戸時代の町人は自由で明るく楽しんでいたとのことがわかってきています。単純比較は出来ませんが、欧米の専制主義や封建主義とは異なり、クオリティの高い生活圏において、穏やかに過ごせていたとさえ言われるようになりました。そして本書からそこが実に強く伝わってくるのです。

今の東京もどこかユートピアのように見られたりします。想像を超えたテクノロジーや完成度の高いインフラ、そしてアミューズメントに夢を見る外国人も多いです。当事者である日本人としては誉れに感じる一方で、その世界規模で眺めた場合のポジショニングおよびその原型は、もう既にこの頃には出来上がっていたのですね。興味深いです。

おわりに。

教科書ならば数ページ、数行で片付けられてしまう時流の中にこんなにも多くの発見があるとは歴史の偉大さを教えられます。
また、ただのノスタルジーでもなく、貴重な資料と捉えることも出来るので、違った視点で日本を再発見することが出来ますね。日本人なら一度は読んで、先人の歩みとこの雰囲気を味わうのも悪くはありません。是非オススメしたい。

さて最後に、私見ではありますが、この穏やかな空気感と今回の文は、運命に抗わず静かに受け容れていく運命論者の片鱗を感じさせます。災害が起こるたびに、慌てず受け容れると世界で評価された日本人に刻み込まれた特徴でもあるでしょうか。
そう考えると、本書を読む中で、何だか下手な啓発本を読むよりも、小さても穏やかでたくましい主人公たちに微笑ましくもなり、気付けば励まされている私がいました。これをただ逝ってしまった面影にだけはしたくない。そう願うのは読んだあなたも感じるに違いありません。

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ブンジブ主筆、そして編集長。知的好奇心は尽きず、月30冊の読書量をもっと増やしたいと願う毎日。