われわれは、確固たる信念をもってそれを実現しようとすると、必ず周囲の他人とぶつかるからである。それは (結果的にせよ) 他人に苦痛を与えることであり、他人から苦痛を与えられることである。
「善人ほど悪い奴はいない ―ニーチェの人間学」 p156
自分の信念や美学を貫くには、こうした対立に伴う苦痛を避けては通れない。強者はあえてこれを選択する。他人からの苦痛に耐え、他人に苦痛を与えても、守りたい自分の信念や美学があるからである。
文と書籍の解説。
卵が先かニワトリが先か。強者だから双方の痛みをものともしないのか、ものともしないから強者になったのか。答えは簡単に出ませんが、いずれにせよ、そうまでして守り通すからこそ信念であり続けるのでしょう。
随分とエゲつない文に感じるとは言え、私見では極めて理に適っていると思いますが如何でしょうか。本書はこんなズバズバ斬り込むテンションが貫かれています。著者の中島義道氏独自のこのやさぐれ感とブッ飛び具合が満載です。
さて、人生には権利を声高に主張せねばならない時が訪れます。その裏側ではたいてい誰かの痛みを伴うのが世の常。辛いですよね。ですがそれを振り払わねばなりません。
概して、権利を主張することは甘くも生易しくもありません。外観が美しく見えたとしても、そこに至るには多大な犠牲と覚悟があるものです。
そう書き連ねていくと、あの騒動を思い出しました。あなたは覚えているでしょうか。今となれば小さな過去になりつつあるあの騒動を。
負けるな古田。信じてる!
2004年。世間を騒がせた日本プロ野球界再編問題。紙幅の都合もあり、ご存じ無い方にはこちらで詳細をご参照頂くとします。
この再編問題では合併により球団が一つ減る話を発端に、それを不服とした選手会側とオーナー側とが対立。やがてストライキ (試合を行わない) という展開へ。それに対し世論の一部では、ストライキによる経済的リスクへの言及やお弁当屋等の関連業者に悪いのではとの声も起こりました。
実は私はその当時日本におらず、ストライキを何食わぬ顔でやってしまう某国にいました。インターネットを通じてそんな世論を知るにつけ、ストライキ慣れ、もしくは争議慣れしていない日本人の変な優しさを見た気がしたのを覚えています。
某国で似た体験をしていても、私も日本人で――それは誇りにしています――気持ちがわからなくはないが故に複雑な心境にも陥りました。決断する古田選手会長 (当時) の立場も理解出来ます。
覚悟の無い人に神は・・・。
同時に、それを気にするなら最初からやるな。あえてそうも思ったのです。シンプルに世界は回っています。日本国内も例外ではありません。
誰も傷付かない結末が正義とも限らず、また踏み出す覚悟の無さが、逆に多大なリスクだという理屈もあり得ます。細かい部分を無視してでも守りたいものが先立てばやるべきだと。
ただ後々の保身を考えるのも人情です。この場合、オーナーや会社側に嫌われるような事態も想定出来ます。そこでも結局元に戻り、それを気にするならやるな。壊れたレコードのように――それを気にするならやるな。
私もこう断言するのは辛いのですが、そう思うなら最初から言うな・・・同じですね。
大前提として、そもそも主張する時点で優しさは要らず、加えて主張は無邪気に言いたいことを言うものではなく、甘いものでもなく、覚悟が含まれるものです。
悪になる覚悟の無い主張に神は微笑まないのではないでしょうか。私はそう戒めています。
おわりに。
本書を通じ、善人は一体どんな生き物なのかとの考察には共感も出来、発見もあり。もっとも中島氏は共感など求めてなさそうです。
そんな彼の物言いは、どの著作も愚痴の一歩手前の舌鋒鋭い追及。専門であるニーチェの如く虚無的だからか。鋭いテンションで斬り捨てまくるので、コンディションによっては辛くもなり。たとえばこういう著作があります。
「「人間嫌い」のルール」 「怒る技術」
何だかいつも怒っています。ですが熟読すると、逆にとても正直で真っ直ぐな人だと気付かされます。
大衆を遠くから斜に眺める時間を持ちたい方には良いのでしょう。しかし現状に問題無い方・穏やかな性格の方はやめておいた方が無難です (笑)。