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文慈部:あなたをそこから自由にする名文たち

思想と哲学

「アイデンティティが人を殺す」からの文を慈しむ。

そのうえ私たちには、いちばん攻撃にさらされる帰属におのれの姿を認める傾向があります。そして、自分にその帰属を守る力がないと感じるとき、それを隠すものです。するとその帰属は自分自身の奥底にとどまり、陰にひそんだままの復讐の機会を待つのです。その帰属を引き受けようが隠そうが、それとなく主張しようが声高に主張しようが、人がおのれのアイデンティティを見出すのはその帰属なのです。

「アイデンティティが人を殺す」 p36

文と書籍の解説。

読みながら何故か切なくなった本。
そしてこの文。人種や民族の複雑な帰属への導入の中で生まれました。大胆な言葉遣いも見受けられますが、偽りの無い生の声だと伝わってきます。隠さなければならぬアイデンティティとは何とも生々しい。
アイデンティティとは「私らしく」のような言葉を代表とした、自己確立を促す啓発的意味合いで使用されることが多いですが、あくまでそれは平和の中でのお話。否、お伽話でしょうか。
ここであえて穿った見方をすれば、アイデンティティとは強烈な差異なのです。だからこそ両刃の剣。肌の色や宗教そして民族等の仲間意識の絆にもなれば、差別やいじめの要因になることも否めません。本書のお陰もあり、広く世界に目を向けると、むしろこの意味の方が主流なのではと戒められます。

著者のこんな数奇人生。

常にマイノリティとして生き、数奇な帰属を持つ著者のアミン・マアルーフ氏。その人生経験により潜在意識として刷り込まれてきた結果でしょうか、多様性への寛容を切に願った深い思想が綴られます。翻訳ではあるものの、穏やかな文体の中にも強い意志が見え隠れします。今回選んだ一文も例外ではないですね。
さてその著者の生き様は?

レバノン生まれ、母語はアラビア語。でも宗教は生来キリスト教。その後フランスへ移住。今ではすっかりフランスの言葉と味覚。このような出自だからか、帰属を問い詰められたこともしばしば。アイデンティティというものを否が応にも熟考するようになった原因がわかります。
「どこか」でなければダメなのかと。

全体的にヨーロッパと中東およびその宗教と民族の話になってしまうこともあり、日本人としてはどこかTVの向こうの話に思えてしまう懸念も否めません。本能的に致し方ないことだと主観では思います。ただ、読むにつけ、少しずつ視野も了見も広がり、新たなスイッチが入っていく感触を残します。

本書のもう一つの顔。

私たちはひょっとすると踊らされて、アイデンティティを評価しすぎていたのか。それが正解だとしても、表裏一体に不寛容の恐れや戦争·革命といった歴史的事件を引き起こすリスクや狂気もまた存在する。
著者の言葉を借りれば、帰属に固執することは排他的・盲信的・偏狭で、まさに殺戮への序章だと。
そのようにアイデンティティをじっくり考えたあとは、差異と関係してくるグローバル化や民主主義の言葉の概念のお話。「アイデンティティ」の言葉も含め、著者は言葉から疑います。グローバル化の脅威と民主主義の進歩まで話題は豊富です。

一方、ここで見方を変えると、マイノリティや複雑な出自で生きた人の処世術の要素も感じられていくのです。そこが健気にも見え、切なくなった原因でしょうか。いずれにせよ、リアルな叫びに聞こえてくるのは私だけではないはずです。

おわりに。

帰属の選択を命じられることへの抵抗、ならびに複雑なアイデンティティへの不寛容。それらへの疑問から生まれた本書。見た目は薄いですが、内容は多角的で濃いです。
こうして読んでみると、決めつけて楽をしたいだけに思える人間のずるさに罪の意識も芽生えます。この内容は読み継がれてほしい願いが沸き起こります。そして、世界の一員としての心の成熟には必読ではないでしょうか。良い本でした。

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アイデンティティが人を殺す (ちくま学芸文庫)

アミン マアルーフ
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ブンジブ主筆、そして編集長。知的好奇心は尽きず、月30冊の読書量をもっと増やしたいと願う毎日。