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文慈部:あなたをそこから自由にする名文たち

東洋の古典

「なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか」からの文を慈しむ。

たとえば知識の量が自分より多い人、人生の経験が自分より豊富な人、物事の見方が自分より多角的である人、状況への把握と判断が自分より冷静でしっかりしている人、趣味の広い人などなど、こういう人と友だちになって付き合っていれば、自分自身の向上にも繋がるし、いざというときには自分自身の助けにもなるだろう。
そしてもちろんのこと、こういう人と友人として長く付き合っていくためには、自分自身もどこかの点で人よりも優れていないといけないし、いざというときに友人を助けてやれるほどの見識と力を備えていなければいけない。

「なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか」 p235

文と書籍の解説。

これを読んでこう感じる人はいないでしょうか。
こんな時に必ずと言っていいほど邪魔をしてくるのが、コンプレックスそしてそこから生まれてくる妬みだと。最近ではいわゆるマウンティングという言葉も登場してきました。私事で恐縮ですが、よく被害にはあいます。

この文の如く相手を認め受け容れる心の余裕と強さ、もしくは器の広さを育んだり、WIN-WINの関係を目指して与えられる価値を磨く方が、そのまま自己成長と幸福に繋がると思うのですが。対等に付き合える仲間が増えた方が嬉しいではありませんか。妬む気持ちが沸き起こった時にはもう、自分に負け、自らの価値を下げてしまっていることに気付いて頂きたい!
自己研鑽が足りないだけで、蝕まれて気付いた時にはもう遅いのです。

「論語」って素晴らしい! けど。

ところでこの文は「論語」の「無友不如己者 (己に如かざる者を友とすること無かれ)」を著者の元中国人・石平氏がさらに読み解いているものです。私としても大切にしたい文の一つ。

今から2500年ほど前に生きた孔子さえもこう語ることには、ベタですが何とも言えない説得力があります。この文に関して言えば、彼には見えていたのでしょうか。歴史をあらゆる角度から遡ってみても、足の引っ張り合いなどの下らないことは頻繁に見られたわけで、ならばそういった場面から出来る限り防衛していく処世術の重要性が。
気になるところです。

「論語」を褒めました。そこで本題。
だからこそ、だ・か・ら・こ・そ、私もずーっと疑問でした。
タイトル通り、孔子や「論語」がこれだけあがめられているにもかかわらず、儒教は良い話を耳にしないことが。

許されざる歴史。

たいてい儒教に関して聞かされる印象は、封建思想の象徴だとか、厳格な主従関係だとか、男尊女卑だとか。ざっと思い浮かぶイメージだけでもこんなところです。あなたは如何でしたか。

どうしたって孔子に結びつきません。
かつてそう思っていた折、ストレートなタイトルの本書との出会い。その答えは全てここにありました。この一冊で十分。
そこで、一つだけ答えを言ってもいいですか?

それは、「論語」と儒教は何の関係も無く、互いに別のもの、とのこと。
元凶は礼教。ほとんどのページがその一連の立証に。圧倒的で説得力があり、面白く、自ずと読むスピードが早くなっていくことに気付かされます。
そもそも一緒に考えられていることの方が、孔子にとっては不本意なもの。死後の話なので知る由も無いとはいえ、都合良く解釈されたりまつり上げられたり、時に捏造されたり。中国らしいと言えばらしい歴史の犠牲者というわけです。そんな中、日本との関係も登場します。

おわりに。

逆に日本は何故、儒教国家にならなかったのか?
江戸時代の思想家・伊藤仁斎を筆頭に、その真実を見抜いた先人たちのインテリジェンスを知っていくことになります。

石平氏は激動の中国に生まれ育った方。そのため日本人が淡いイメージを抱いていた部分にまで切り込んでくれているのが爽快です。

「論語」には今回のように学びはあり、その素晴らしさは変わりません。私としては今後もそう言い続けます。ただ、この真実を知らずに子供たちに「論語」や中国の古典を薦めるのは恥ずかしさが芽生えますね。
いやはや、出会えて良かった。

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ブンジブ主筆、そして編集長。知的好奇心は尽きず、月30冊の読書量をもっと増やしたいと願う毎日。