あれがない、これもないと文句を言う人が多いが、欲しいものが手に入らないほんとうの原因は、ほんとうには望まなかったせいであることが多い。(中略) 金持ちになろうと欲してなれなかった人には、お目にかかったことがない。ただしあくまでも 「欲する」 のであって、単に望むのではない。
「幸福論」 No.29 p185
文と書籍の解説。
「望む」 と 「欲する」 の違いはハッとさせます。如何でしょうか。
同時に、願いを叶えて終わるのか、文句を言って終わるのかと決断を迫られるかのよう。永いか短いかはわからない己の人生をひとまずここで振り返ってみても、願いが叶うか叶わないかの差は、実は能力等よりも心の入れ込みようという、そんな究極にシンプルな因果にあるのだと実感はしています。また、原文はフランス語なので、語源や漢字の違いを突き詰めても虚しいですが、同じ 「望む」 でも 「希」 望などではなく (そもそも希とは 「まれ」 や 「珍しい」 の意。めったにないことを願うさまから生まれた)、「野」 望や 「渇」 望のようなワイルドさが必要とも言えるでしょうか。
最終的には、それほどまでに熱く思い描けば、ダメな時は願いが足りなかったと諦め達観するメンタリティの強靭さにも繋がっていきます。
そんなことわかってる! と言いたくなりそうな言葉の並びですが、何度も振り返りたい深い文です。まさに 「幸福論」。
オススメ出来ない、ある翻訳本。
このアランの幸福論は93編からなるプロポ (エッセイ)。「論」 とあっても決して小難しくはありません。
1903年当時、彼が祖国フランスで新聞に連載していたものの中から、幸福をテーマにしたものだけをまとめた一冊。初版は1925年。先ほどのあっけないくらいシンプルな人間の摂理は、この時には既に解明されていたようです。
言うまでも無く、翻訳本は何冊もあります。今回メインとして引用するのは日経BP社発行のもの。画像にもあるように絵画付きで現代のエッセイ風。楽しく読みやすいので個人的には一番オススメしたい。ただ各書を読み比べすると、本書にはあるギャップを感じます。
印象としては復元された古典建築の汚れが取れてこざっぱりしてしまったよう。悲しいかな、読みやすくなる代償に、出版された時代なりの古典らしさがやや削れてしまったギャップを頭の片隅に入れておく必要はありそうです。
一方、 「今度こそ読み通せる名著」 版は全93編ではなく、部分的にセレクトされた内容なのでオススメ出来ません。何故そんなことをしたのか? そしてより一層文章が軽いです。
その点、古典の雰囲気は、やや硬さがあるとは言え、岩波文庫版が一番。
ちなみに一人称は、先の2冊が 「私」、岩波文庫だけが 「ぼく」 です。
アランの定義する幸福とは。
今回の文はその93編のうち、「運命について」 と題されたエッセイから。運命は過酷で暴力的だとの叙述で始まります。
運命とはたとえどんな天才であっても私たち人間を潰す。ただ人間も負けずに潰し返すことだって出来る。やりたいことをやって切り開いていくことで。そんな強さは、往年の偉人だけでなく誰でも持っていると書き、先の文に辿り着きます。
この幸福論に一貫する彼のポリシーは、幸福は誰かに与えられるものではなく、自らの意志と行動によって作り出すものということです。
人は誰もが小さな望みを持ちます。
ただ次に重要なのは、それが心の中で真に求めることなのか否かを自らに問う瞬間ではないでしょうか。アランの言葉を借りれば、「望む」 程度で終わるのではなく、「欲する」 ことに昇華するまで。ハングリーさや熱意、そして情熱に変わるまで育んでいく時間とも言えるでしょう。そうして掴むのです。一見無駄に見えても、急がば回れ。
おわりに。
世の中には幸せを呼ぶための引き寄せの法則にまつわる書籍が多々あります。内容はどれも勉強になります。そこには何らかの科学があるのかもしれませんが、結局行き着くところは想いや言葉の力。本質的には不幸も幸福も両方同じ物質ということになり、原因は自分にあると気付きます。
夢や願いは素晴らしい。ですが、そこに綺麗事は無く、甘くはないのだと教えられるようです。幸福は厳しい。
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