ひとつは衆論は必ずしも人の数によるものはなく、智力の分量によってその強弱が決まるということである。もうひとつは、人々に智力があったとしても、これを結合する習慣がなくては、衆論の体裁をなさないということである。
「現代語訳 文明論之概略 (ちくま文庫)」 p136
※(原文)
即ちその第一条の趣意は、衆論は必ずしも人の数に由らず、智力の分量に由て強弱ありとのことなり。第二条の趣意は、人々に智力ありといえども、習慣に由てこれを結合せざれば衆論の体裁を成さずとのことなり。
※(原文) 「文明論之概略 (岩波文庫)」 p100
文と書籍の解説。
今回の文は福澤諭吉三部作と呼ばれる中の一つ、「文明論之概略」 から。三部作の詳細は後ほど。
明治8年出版の書籍からと考えると、実に理知的で成熟さを漂わせます。今で言うポピュリズムの本質 (人数や人気で物事が決まる) にも一部言及されていますね。
もしかしたらこういった発言は 「昔の人、よくやるじゃないか!」 のような現代人の上から目線に思われそうですが、断じて違います (そもそも彼ほどの人物にそれはあり得ません)。むしろ時代を越えて見事に核心を突いており、頭が下がる想いがするのです。
特に出版当時は近代日本の黎明期。物心ともに江戸時代の名残りもあり、まだ憲法も国会も選挙も存在しなかった時代です。そんな時代に、国の未来を真剣に考え、学び、こうまで伝えようとするあくなき情熱と聡明さに心が揺さぶられてしまいます。
とは言いつつも、日本国民なら皆知っているはずの彼ですが、では一体具体的に何をした人なのか。もし子どもに尋ねられたら?
慶應義塾大学の創設だけではありません。
危険人物、諭吉。
福澤諭吉は幕末生まれの思想家および教育者。
国の成長には教育――その重要性を早くに説き、自身も誰より学び続けた人ではないでしょうか。後の研究では、語学に堪能、海外の文献をいくつか所持していたほどの相当な読書家とのこと。その上で書かれた彼の各著作を読めば、幅広い分野の造詣の深さに驚かされることになります。特に本書ではそれが顕著です。(参考文献 「文明論之概略 (岩波文庫)」)
一例として当時の諸外国の歴史・思想・情勢への言及。ローマ帝国からフランス革命、そして列強のアフリカでの残虐行為までも。東洋の古典・歴史もお手のもので、孔孟思想・道教まで総動員で文明を語ります。
彼の思想は時代を先取り、自由で鋭さを感じさせるもの。
高い評価の陰で、そんな性質は警戒もされ結果的に敵も作った模様です。同じく有名な伊藤博文や井上毅とは仲が悪かったようで、これほどの人材でありながら政治には関わらないスタンスでした。
彼の死後――やがて全体主義が強くなる昭和初頭には、明治の頃とは打って変わり、彼の評価は大きく悪い方へ。
・・・今私たちが一万円札としてお目に掛かれるのは、戦後に名誉回復されたからというのが実話のようです。彼を知れば知るほど驚きを感じるのは私だけでしょうか。(参考文献 「福沢諭吉と「官」との闘い」)
諭吉三部作 (トリロジー)。
さてそんな彼の三部作についてです。それは、
「学問のすすめ」
「文明論之概略」
「西洋事情」 の3つ。
実際のところ、「学問のすすめ」 ばかり取り上げられるのも否めませんが、本来どれも、もっと知られるべき本。ただ古典なので、知るにあたり現代語訳が必要となりますね。
「文明論之概略」 では多くの翻訳本が出されており、その読み比べもまた楽し。
ちなみに本記事では齋藤孝氏訳の書籍をメインに執筆しています。この齋藤版は私たちの言語感覚にしっくりくる、今っぽい言葉遣いと言って良いでしょうか。
それとは対照的に、先崎彰容氏訳は原文の雰囲気を重んじ、現代語ながら古典ならではの威厳を保っています。ともに内容の理解には全く困りません。一言加えれば、先崎版では巻末の解説がオススメ。高い教養に加え、心打たれる台詞も多く、この部分のための入手もありだと思わせます。
おわりに。
福澤諭吉が描いた文明とは、大衆つまり各人の精神の成熟。
本書で西洋を頻繁にベタ褒めはすれど、どの見解も冷静でフェアであり、今回の文でも国への愛情とストイックさが見え隠れします。
日本は先進国になれました。
今彼が生きていたらどんな気持ちで世を眺めるでしょうか。物理的に満たされても、精神の成熟度で何と言われるやら。敬意を込めて話を聞いてみたい。
今こそ彼の言葉が必要なのではと思わせます。