学生時代の話をすると
「一流役員が実践している仕事の哲学」 p92
三流は
「体育が得意でした」と言う
二流は
「数学が得意でした」と言う
一流は
「国語が得意でした」と言う
文と書籍の解説。
「社会で一番役立つ学問は数学」 という意見があるけど、その前に――。
学生時代に得意だった教科は何か。そんな質問を企業の一流役員の方々へ。そしてその答え。だいぶ物議を醸しそうな三分割ではあります。ですが、著者安田正氏の永年にわたるコンサルタントの仕事による膨大な経験値からの答えで、偏見はないと付け加えさせて下さい。後の解説では 「少なくとも国語は苦手ではなかった」 と柔らかい表現へ変換はされ、数学が得意だった理系技術職の人も、国語もまあ出来たと答えた人が多いとフォローも。
ただ、本書自体は良書と感じますが、殊にこの部分に関してはやや論理が性急に過ぎ、言葉足らずに感じてしまうのです。
そもそもその前提――国語と数学の二元論――は正しいのでしょうか。この2つを比べる必然性が感じられません。恐縮ながらそこにはこんな別の視点も見えてしまうのです。
国語が出来ないとこんなリスク。
一体何が著者をこの分類へと至らしめたのか。
それは、彼が役員の方々と接し、垣間見た会話の明快さ、メールでの簡潔さ――その辺りから言語能力の高さを感じ取ったのだと言います。そして続けるには、それは思考力そのもので判断力にも結びつくことから、立場上必要なスキルに他ならないと伝えています。
確かに社会では、初対面での会話、社内外でのコミュニケーション、そしてEメールのやり取り等において、言語力が優れていればとても大きな切り札です。
逆に、たとえばあなたの上司が言葉を知らず、説明下手で何を言っているかわからない人だとしたら・・・。現実を言えば、敬意や信頼の度合いもそれだけで揺らぐことがあり得ます。
総じて、会社や組織を代表する立場の人材が言語力に長けているのは必然な流れです。損にはなりません。ただもう少しだけ大局的に見ると、数学的に物事を考えられる人も一流だと思うのです。
全てが解決出来る数学。
では数学的とは。そして数学の本質とは。本来どんな学問なのか。
それにはこんな答えは如何でしょうか。
「数学は、如何にして論理的に物事を解決するか」。
これほどまでに論理にシビアな学問は他に無いでしょう。論理的に考える上での道具および媒体として数字や公式を使います。
それは何故か?
数字には嘘が無く、万国共通で概念が不変だからです。たとえば 「1」 は1でしかありませんね。人によって1っぽく見えたり、国によってちょっと2寄りの1なんて理屈はありません。また試験で完璧なら100点。スコア0対0は誰がどう見ても引き分け。このように数字は相対的でも感覚的でもなく、平等で絶対的なもの。
故に、誰もが納得出来る値と概念を使い、誰もが納得出来る論理で、誰もが疑いようのない答えを導き出すのが数学の本質。
もし仮に、数字の他にその役目を満たせるものがあれば、今とは違う姿の学問になっていたでしょう。
物事を数学的論理で考えれば、ビジネスや人間関係のWIN-WINにも通じ、戦争ですら解決出来てしまう。これは決して飛躍した考えではなく、その可能性を秘めているのです。
私は教科書に載っている難しい法則や公式などはわかりません。しかし皮肉にも大人になってそんな数学の本質や真の魅力に気付き、好意を持つようになりました。
こんなタイトルの本にも惹かれています。
「数学を使えばうまくいく ―アート、デザインから投資まで 数学でわかる100のこと―」
おわりに。
学生時代に、単なる授業としてでなく、こう教えてくれる先生に出会いたかった・・・。ならば今度は私たち大人の次世代への役目です。
言語力と論理的思考力のどちらが大切という対立の問題ではありません。
著者の言い分も大いにわかります。先の一文に難癖をつけるつもりは毛頭ありません。
ただひと言許されるのなら・・・、数学的に解決出来る人になりたいし、憧れます。数学は人を幸せにする。そう言わせて下さい。