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文慈部:あなたをそこから自由にする名文たち

アートとデザイン

「芸術を創る脳」からの文を慈しむ。(1)

酒井 マジックに対する一般の日本人の反応は、欧米とどこか違うのではないでしょうか。欧米の人たちにとってマジックは、演劇などの舞台芸術 (performing arts) の一つですから、演技を観て楽しむことが前提です。ところが日本人の観客には、マジックを楽しむ以前に「騙されまい」と身構えてしまったり、「タネを見破ってやろう」と思ったりする人が少なからずいるように私は感じています。テレビのマジック番組を観ていると、司会者までもがそうした横柄な態度を取るので、残念でなりません。

「芸術を創る脳」 p139

文と書籍の解説。

こんな表現を許して下さい。こうなる原因は下らないプライドからなのでしょうか。優位な立場でないと不安で気が済まないとの思考回路からなのでしょうか。仮説ですがどうでしょう。
これと似たことは、私自身もクリエイターとしてこれまで頻繁に経験しました。思い出すだけで辛く、悲しくもなります。同時に、何故にこうしたことが起こるのかと、人間の性質をしっかり見据えておきたいと願うのです。その理解は自己のみならず、他のクリエイターの方々へのフォローとして役立つかもしれません。そんなこんなで妙に印象に残った編者の酒井邦嘉氏の発言です。

芸事もしくは芸術 ― まとめて 「芸」 としましょう ― の受け容れ方や臨む心構えのこのような違いは、日本人の気質が手伝い、深く根を張ってしまったのかと感じさせます。

芸とは? プロとは?

「芸」 なら全て捨てて楽しめばいいのです。
その意味ではやる方も観る方もバカになれる良さがあり、むしろそのために金銭の授受が発生すると言っても過言ではありません。そこにはただ、Aが最大のパフォーマンスを提供し、Bがそれを体験するという究極にシンプルな関係性が存在します。どちらの側からどう見てもそれは不変。だからそれ以外は不要で、無駄なものなのです。

たとえば (ここではあえてくっきり線を引きますが) 中途半端なウンチクは素人に求められていません。プロの努力も知識も経験も圧倒的なので、どの道敵わず、生兵法は怪我のもととあるように恥をかくことさえあり得ます。そんな 「私スゴイ」 アピールをしたところで、逆に自信の無さの露呈になってしまい物笑いの種になるだけです。芸は争い事では断じてありません。
総じて、最大のパフォーマンスを受け取ろうとの心構えがプロへの敬意と愛情。さらに、払うせっかくのお金にも真の意味が宿ることになります。

或るクリエイターの叫び。

本書は全てプロフェッショナルとの会話形式で一貫しています。各芸事に専念する方が4名。その会話では普段なかなかに知ることのない視点を教わったり。本来、その道のプロの話は勉強になり面白いものなのです。未知の領域にいざなってくれます。
またどんな些末なことでも芸術に結び付けて考えてみることで、思考の広がりを感じさせます。マジシャン・前田知洋氏の章は、特に広がり強くオススメです。

こういった方の存在は日本人として誇りです。
だからこそ、これだけの文化や人材を抱えていながら、何故冒頭のように粗末にするのか。心得などという基本から学ばねばいけないのでしょうか、この国は。そう言いたいのです。
乱暴な物言いは申し訳無いのですが、良くあってほしいだけに言うのです。批判も覚悟の上ですが、それよりも先に、プロとの会話でこんな発言が実際に出ることが何よりの答えではありませんか?

これらに目を向けずに、何がおもてなし?
外ヅラが良いだけですか?
何がクールジャパン?
自分たちの文化や芸を育まないのですか?

おわりに。

少し斬り込みました。
私事ですが、学芸において永く発信する側にいます。そのため冒頭のような場面を想像したあかつきには、吐き気と同時についでに屁が出ます。

ジャンル問わずプロへの敬意を抱く態度は、自己や国家の成長とイコールです。逆を言えば、敬意を欠く言動は、実は巡り巡って自身をも粗末にしていることになるのです。
不寛容で自己アピールまがいの批判文化が主流になってしまう懸念や虚しさは残ります。批評という媒体も、元は心得と愛情が鍛えられはじめて育つものなのです。私はそう思います。この国が芸事に対し、真に、芯に、深に寛大になることを祈り続けて筆を置きます。

著:曽我 大介, 著:羽生 善治, 著:前田 知洋, 著:千住 博, 編集:酒井 邦嘉
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ブンジブ主筆、そして編集長。知的好奇心は尽きず、月30冊の読書量をもっと増やしたいと願う毎日。