自分を修めることとは自分に打ち克つことである。
「ブッダの毒舌」 p130
賢者とは、自分に打ち克つことで
自分自身を救えた人間の名である。
文と書籍の解説。
人は誰しも大なり小なり目指した道があります。その道中、傷付き、絶望し、諦め、さらには悔やむことも多々あるでしょう。それらがどんなに深い痛みを伴おうとも、消し去り癒すには、その道をひたむきに貫くしか方法が無いとしたら――。
最初の「自分を修める」との表現はあまり聞き慣れないかもしれませんが、実は非常に大きなポイント。結果的にかなり重い言葉と悟らされます。ちょっと不思議な表現に感じ、改めて調べたのです。
まずは「修める」から。これには 「武道を修める」 「学問を修める」 等の用法がありますね。単に体得・習得を表すだけでなく、真理をつかみ道を究めたという完了の形での精神的な意味や、他にも同じく精神面で 「正す」 「整理する」 という意味も含みます。こうした解剖は発見があり勉強になります。
では次に「自分を修める」とは?
あの古い歌の詞から。
そのままあてはめてみると、「自分の精神を正す、整える」 「自分という人間の真理をつかむ」 「自分の為すべきことを成し遂げる」 ・・・って、これこそまさに 「修」 行ではありませんか。
心身を整え、目的地に辿り着こうとする作業、そしてその完了。これが 「自分を修める」 ということ。辿り着くには自分に打ち克つことが不可避なのは言うまでも無く、2つがイコールとされるのも頷けます。
だからこそ、辛くとも、貫き、成し遂げ、辿り着くことでしか・・・つまり自分を修めることでしか自分自身を救うことが出来ない話になりますね。きっとホントの悲しみなんて自分ひとりで癒すものとはちょっと古いあの歌の詞か。そこまで含めて 「自分を修める」。
良い表現でなくて恐縮ですが、たとえばアスリートのようにグラウンドの借りはグラウンドで返す。さらには、夢破れても、願わくばそれでやり返す。そこに絶望感があっても、這い上がり自分で自分を癒し救う。それこそが賢者と解釈出来ます。
こう噛み砕いていくとグサリとも来ますね。
あなたは賢者か?
本書は一日で読み切れるような名言集の体裁をとっています。元々がそのようにピックアップされた文の集まりであることから、たった一つを選ぶのも抵抗がありました。ですが、何ともこれが我が心を打ち・・・。こうして伝えたいと強く感じたのです。
毒舌とタイトルにあってもそれほどではなく、むしろ核心をズバッと突いてくる趣きです。そこが毒なのか。もっとも知られざる仏教の真の姿を知ってしまうと、それも当然の如く思えて特別な驚きはありません。その真の姿は、著者の平野純氏が姉妹本と定義する 「裸の仏教」 にて詳しいです。内容はブッダのクズっぷりが満載。
さてブッダは多くの経典で言葉を残しています。今回の文はその中でも最古のものとされる 「スッタニパータ」 の第三章サビヤの経からのピックアップでしょうか。断定は出来ませんが、似た概念が登場しているのが目に付きます。
(参考文献 「ブッダのおしえ 真訳・スッタニパータ」 )
どの言葉を眺めても、その教えには智慧や賢者の単語が多く登場。現代の私たちが目指すべき 「賢い人」 もしくは 「利口な人」 の例が豊富です。今回も賢者とは何かを教わりましたが、他にも 「ありのままを見て謙虚に」 なんて教えもあります。
おわりに。
基本的にブッダの言葉は比喩・隠喩が強く、考えさせる言い回しだったりで脳が汗をかきます。その汗が心地良いとお伝えしたいと同時に、恐らく今回の文には他の解釈もあるでしょう。
どの解釈も正解。その時々の自分なりの解釈が己を救うなら、それも立派な宗教の姿ではないでしょうか。
「自分を修める」 の言葉からは結果として、歩んだからには貫き、そして向き合うしかない運命 (さだめ) を思い知らされます。それはとても厳しい。ですが打ち克つ末にこそ幸福も用意されています。大事にしたい言葉がまた一つここに。